2012年8月11日〜15日 穂高岳 夏合宿報告
メンバー/森田(CL)、大内(SL)、中嶋、松田、新谷、田中、松原
全日参加(11日〜15日):森田、中嶋、田中
11日〜13日:松田
11日〜14日:新谷
12日〜15日:大内
14日〜15日:松原
夏合宿の計画は、奥又白池をベースに、松高、北条・新村、都立大、中又白谷のクライミング。天気予報を見ると、前半が雨っぽい。北条・新村ルートを登れるといいなと思う。
10日発のメンバーは、8月10日22時に、新大阪駅バスターミナルに集合。上高地行のバスは何台もあるようで、後から参加表明した新谷さんは別のバスだった。中嶋さんが予約してくれていた席は、4列のバスの並びに3名で、隣の空いている席に座らせてもらって、目が覚めているとき以外は寝ているような感じ(ほとんどずっと寝ている?)で沢渡まで行き、バスを乗り換えて上高地に到着。後ろのバスに乗った新谷さんが、先に着いて待っていた。朝食を食べて、7時に上高地を出発。
7/11 7:00 上高地発 − 7:50 明神 8:45 徳沢 9:10 − 10:20 パノラマ新道との分岐 10:40 − 13:10 奥又白池着
荷物が重いので、拾った木の枝をストックにして歩く。ビール14本を背負った森田さん、ビール12本と焼酎2リットルを背負った中嶋さんが、ゆっくりペースで歩いてくれるといいのになぁと思いながら歩く。
パノラマ新道との分岐までは5人揃って歩いたが、中畠新道は各自のペースで登る。新谷さんはあっという間に見えなくなり、その後ろを、松田さん、中嶋さん、田中、森田さんが、ジワジワ離れながら登っていく。
10歩登って一息、5歩登って一息を繰り返し、ふと見ると、ザックに挟んでいた帽子がなくなっていた。今更取りに戻れるわけもなく、森田さんが拾ってくれることに期待して池まで登る。
隣のテントは、北条・新村ルートを登攀中の人たちのようだ。「やっぱり、ここに張ったか。水場の近くにもテントを張れる場所があるのに」と言いながら登ってきた森田さんの手には帽子はなかった。落ちていた帽子は、「手に取ったけれど、男の匂いだったから拾わずに、木に掛けておいた」とのことだった。
森田さん、中嶋さんが担いできてくれたビールと酎ハイで乾杯。森田さんは、ツェルトでトイレを作る。赤い防水テープで目張りしたツェルトは、中嶋さんが屏風に持って行った思い出のツェルトのようだ。
古いツェルトのポールを取り出して、「ポールをツェルトの中に入れて、あっ、こんなところにちょうどいい穴が」と言う森田さんの手元を見て、中嶋さんが、「俺が底を張って屏風に持って行った快適なツェルトやったのに」と文句を言う。「まさか、こっちにも穴があるなんてことは、・・・、あっ、こっちにも穴が」と2本目のポールを入れる森田さんに、「高いテープを買って目張りしたのに」と中嶋さんはぼやく。「じゃぁ、このツェルト、持って帰っても、ええよ」「もう、いらん」などと言いながら、快適なトイレが完成。環境に配慮して、排泄物は後で埋めるように穴に溜め、トイレットペーパーはゴミ袋に溜めることにする。
この日は、小雨は降ったものの、雨具を着るほどのことはなく、ボッカ日和だった。天気図を書くと、予想天気図と同じ気圧配置で、日本列島は低気圧と高気圧の間で上には何もなかった。天気図を見ても明日の天気がわからなかったので、雨かもしれないと思いながら、松田さんの居酒屋風・中華料理と焼酎を頂く。
メニューは、八宝菜(生のキャベツ半玉入り)、酢豚(生の玉ねぎ入り)、マルちゃんラーメン(キャベツと玉葱入り)。アルデの人は、キャベツ一玉を担いで登るんだ。
池畔は虫が多く、小さな蚊のような虫に刺されると、赤く膨らんでかゆい。松の枝を燻して蚊取り線香がわりにする。とりあえず、明日は3時起床と決めて寝る。暑くもなく、寒くもなく、快適な夜だった。
7/12 3:00 起床− 5:20 出発 A沢を登る− 7:20 A沢のコル 7:23 − 7:54 前穂高山頂−二峰− 9:18 前穂高山頂− 9:52 コル(A沢ではない)− 10:24 下又白谷のコル−下又白沢を下る− 13:05下又白谷のコル− 13:35 コル(A沢ではない)−前穂山頂の手前− 14:45 A沢のコル− 18:00 テント着
朝食は、牛丼とラーメン。雨は降っていない。中嶋さん・松田さんは松高ルート、森田さん・新谷さん・田中はA沢〜北尾根〜五・六のコル経由でテントまでの予定で出発する。中嶋さんから、踏替点を確認しておくように指示される。
A沢に行くまでの道はブッシュに覆われていて、わかりにくい。途中からは脆い岩がゴロゴロしていて、いやらしい。ルンゼに入り、不安定なガレ場を登って踏替点に到着。森田さんが赤布をつける。踏替点よりも、A沢に入るまでのブッシュのほうが、わかりにくいような気がした。
A沢の上部の雪渓を、森田さんは登山靴で、新谷さんと田中は軽アイゼンで登る。軽アイゼンは前爪がないから登りにくいと新谷さんがぼやく。長い雪渓は緊張する。コルの上部に見える青空が美しい。雪渓をつめて、ちょこっとガレ場を歩いてA沢のコルに到着。残置の赤テープもあった。
少し休憩して、右手前方に見える前穂の山頂に向かう。A沢のコルから前穂山頂の間に他のコルはなく、前穂から降りてきたら、最初のコルがA沢のコルだな、と思った。前穂の山頂に着くと、三峰、四峰を登っている人が見えた。
森田さんは、岩が脆いので、登っている人がいるときに三峰、四峰を下ると落石の危険があって良くないなぁと言い、とりあえず、二峰まで行って様子をみることにする。
二峰への登りで、降りてくる人とすれ違った。とりあえず二峰に登ったが、昔に比べて、岩が脆くなっていて、これ以上進むのは危ないということで、そこから引き返すことになった。
森田さんの知り合いのパーティーにザイルを使わせてもらって懸垂で降り、前穂高山頂に戻る。
このままA沢を降りるだけでは物足りない新谷さんは、奥穂まで行くのはどうでしょう、涸沢まで行って五・六のコルを経由して帰るのはどうでしょうと提案するが、不眠症で眠れず、おまけに蚊に刺された左目の瞼が腫れ上がって、ほぼ片目しか見えない森田さんは取り合わず、A沢を下って帰ることになった。
新谷さんが先頭をザクザク進み、A沢のコルまで戻る。来るときは稜線近くを歩いたが、帰りは岳沢側の、少し低いところの踏み跡をたどって歩いた。古びた赤テープのあるコルを新谷さんが下り始めたが、A沢のコルとは景色が違う。数歩降りたところで「ここはA沢のコルではない」ということで、登り返して先に進む。
次のコルにも、赤テープがあった。「ここがA沢のコルだ」。前方の山の岳沢側の巻き道にフィックスザイルが見える。来たときは、A沢側の巻き道しか見なかったから、フィックスザイルに気付かなかったのかな、と思った。
雪渓の上部のガレ場が朝よりも長い気がする。ガレ場には踏み跡があり、少しはずれたところに朝は気付かなかった荷物(ゴミ?)が落ちている。ガレ場を下ったところで岩に捨て縄をかけて、ザイルをフィックスして雪渓を下る。見上げた空とコルは、朝と同じように見えた。
ここで、無線がつながり、中嶋さん・松田さんパーティーは登攀が終了し、これから五・六のコルに向かうところとわかる。
2ピッチ目を下ったところで、新谷さんが雪渓の様子と下の風景が違うと言い出した。確かに、朝は雪渓がつながっていたのに、今は、切れ目がある。でも、振り返った景色は同じ(上部のガレ場が朝より長いが)。この沢に入るまでに、他に顕著なコルはなかった。雪渓は、こんなに急に溶けるのだろうか。
滑落しないようにと緊張していたから、実際以上に長く感じたのだろうか。とりあえず、もう1ピッチ降りてみる。
「A沢からは奥又白池が見えていたのに、今は横尾山荘が見えているから、おかしい」と新谷さんが言う。「左手に丸い山がある。あれが茶臼だとしたら、ここは下又白谷だ」と森田さんが言い、現在地が判明した。
A沢のコルから前穂の山頂までの間に、他のコルはなかったのに、どうしてA沢のコルを通り過ぎてしまったのか? よくわからないままに、雪渓を登りかえして、前穂方面に向かう。
「ここはA沢のコルではない」と言って登りかえしたコルで、「これがA沢か? でも、風景が違う。ほんとうは、こんな景色だったのか?」と悩む。
「A沢のコルは、はっきりしていて、残置の赤テープもあったので、赤布を残さなかった。持ってきた赤布をつけておけばよかった。」と森田さん。ここはどう考えても、A沢のコルではなく、先のほうで下又白谷と合流しているようだ。狐につままれたような気持ちで前穂に向かう。
元気な新谷さんは、どんどん先に進む。前穂の頂上が近づいてくる。A沢のコルはない。霧が晴れたところで稜線から下を見ると、奥又白池が右手に見える。現在地は、A沢のコルと前穂山頂の間だ。いつのまにかA沢のコルを通り越している。
なぜ? 後から来る二人を待っている間に地図を見ていた新谷さんが、A沢のコルは、前穂から明神へ向かう尾根上ではなく、支尾根上にあることに気付いた。
前穂からA沢に向かうときは、岳沢側の斜面の少し低いところを歩いたので、主尾根と支尾根の分岐点を通らず、そのまま明神に向かい、下又白谷のコルまで行ってしまったようだ。
今度は、支尾根の分岐を見逃さないように、できるだけ稜線近くを、注意深く明神に向かって歩く。ケルンが積んであり、木の枝が置いてある分岐点があった。主尾根の道がはっきりついているので、うっかりすると見逃してしまいそうなケルンだ。
行きは、前穂山頂に気をとられて、ケルンがあることに気付かず通り過ぎたようだ。左手前方30mくらいのところに、A沢のコルが見える。コルまで行くと、沢の下に奥又白池とテントが見えた。今度こそ間違いない、A沢だ。雪渓際の岩に打たれたハーケンを使って懸垂で雪渓を下る。
25mくらいの間隔で残置ハーケンがあった。短いピッチを繰り返していては時間ばかりかかるので、支点に捨て縄を足しながら、50mいっぱいザイルを伸ばして、4ピッチ(5ピッチ?)で雪渓を下った。雪渓の懸垂は、岩場の懸垂よりも傾斜は緩いが、足元が滑ってバランスを取りにくい。
途中で、下のテントのほうから声がしたので、手を振って返事をしてから懸垂したら、確保点に着いたときに「大きな声を出してなんだ。落石かと思った。」と言われた。雪渓を抜け、落石しないように間隔をあけてガレ場を下る。
迎えにきてくれた松田さんと合流し、四峰側のはっきりした踏み跡をたどって、テントまで戻った。
テントに戻ると、「さやつきの枝豆」と「ポテトサラダ」ができていて、大内さんがマカロニを茹でているところだった。アルデの人は、さやつきの枝豆を担いで登るんだ。ビールで乾杯したところで、「マカロニのバジルソース和え」が出来上がる。
ポテトサラダがおいしいので、大内さんに秘訣を教えてもらう。コンソメを入れるのがコツらしい。テントに戻るのが遅かったので、天気図も焼酎もなしで、明日も3時起床と決めて寝た。
7/13 3:00 起床−停滞− 19:30 就寝
天気は微妙だが、大内さん食担の米粉ラーメン(野菜入り)を食べる。麺がモチモチで、おいしい。5時ごろになって空が明るくなっても、霧と霧雨はなくならない。
停滞が決まり、森田さんが焼酎に手を伸ばす。松田さんはゴミを集めて下山の準備。帽子を見つけたら拾って河童橋のデポ袋に入れておくし、下山したら松原さんに担げるだけのお酒と蚊取り線香を持ってくるようにメールするからと言って、霧の中を下っていった。
朝から焼酎を飲んでいては先が思いやられるので、昨夜の残りの枝豆をつまみながら、森田さん、大内さん、中嶋さん、田中でウイスキーを飲む。
新谷さんは、「お酒なんて、どこがおいしいのか、わからない」と言って、焼酎を一口飲み、持ってきた文庫本を読む。森田さんが持ってきてくれた「鴨のロースト、数種の野菜、ウインナー」を炒め、昨夜の残りのマヨネーズとネパールの塩で味をつける。
鴨から油がでて、とてもおいしい。袋詰めのコールスローサラダは、原型をとどめておらず、得体のしれないものになっているので、最後に土に埋めることにして、テントの外に置いておく。
お腹も満足し、森田さんが「雨など降るもをかし」などと言うのを聞きながらウトウトした。目を覚ますと、550mLペットボトルのウイスキーが半分以下になっていた。中嶋さんと大内さんが、森田さんからウイスキーと焼酎を取り上げた。一日中、降ったりやんだりの天気だった。
夕方には雨がやみ、新谷さんが外で生米を炊き、ちらし寿司を作った。16時の気象通報を聞くと、日本海に停滞前線がいた。おかずはマーボ春雨。水気が多く、スープ風でおいしい。森田さんは自粛したが、3人で焼酎を少し飲んで、明日も、とりあえず3時と決めて寝た。
7/14 4:00 起床 停滞
一晩中(かどうかわからないけれど)、雨が降ったりやんだりで、けっこう激しく降っていたときもあった。3時になっても雨が激しく降っていたので、起きてもしょうがないと大内リーダーが言った。シュラフの足元が湿ってきた気がする。
森田さんの「水が溜まってシュラフが濡れた」という声で4時に起こされ、吸水タオルでテントに溜まった水を拭く。トイレに雨水が流れ込んで溢れそうになっており、トイレの横にできた水溜まりとつながりそうになっていた。
昨日は一日中テントの中にいたので、それほどお腹もすいておらず、マグヌードルとちらし寿司で朝食にする。こんなとき、マグヌードルは、量を選べて便利だ。4人で朝から焼酎を飲む。
森田さんが「雨など降るも、いとをかし」と言うが、停滞2日目となると、ちっとも「をかし」くない。新谷さんは、「こんなのの、どこがおいしいのか」といいながら焼酎を一気飲みし、「やっぱり、わからない」と言う。
雨の奥又白池で泊まった他の3組のパーティーは、テントを畳んで下山していった。9時10分の気象通報を聞くと、停滞前線が日本列島の上にいた。
新谷さんは文庫本を読みながら、「今日、登れないなら、一日早く下山してしまおうかな」「涸沢経由で帰ろうかな」「五・六のコルを重い荷物を担いで登るのは大変だな」などと呟いていたが、持ってきた2冊の文庫本を読み終え、昼食にマグヌードルとちらし寿司を食べて、本人は飲まなかった大量のビールの空き缶とゴミを持って、雨具を着て下山していった。
お昼を過ぎて雨が上がったので、テントからでてトイレ問題を解決することにした。田中は、溜まっていたトイレットペーパーを燃やす。
その間に、雨水で池が増水し、松高ルンゼに向かって小川となって流れているところにツェルトが移され、トイレは穴埋め式から水洗式に進化した。この水は中又白谷には流れ込まないから大丈夫。
4人がトイレ問題に夢中になっている時に、松原さんがビールと焼酎、蚊取り線香と一緒に到着した。松原さんの到着と水洗トイレの完成を祝って、ビールと酎ハイで乾杯する。
16時の気象通報を聞くと、停滞前線は日本海に北上していた。停滞前線って、名前の通り停滞するんだ。そして、前線は雨を降らせるんだ、と身を持って感じた。
夕食は、これぞ山の定番! カレーとコンソメスープ。カレーの具は、松原さんが山のために購入した野菜乾燥機で自作した半乾きの人参、じゃがいも、玉ねぎ。コンビーフ。風味づけに、炒め玉ねぎペースト。肉代わりの高野豆腐。
もうカレーは食べたくないというくらい試作したという特性カレーに期待が膨らむ。野菜はいい感じだったが、高野豆腐は、おおむね不評で、大内さんに駄目出しされていた。明日は3時と決めて寝る。
7/15 3:00 起床 − 5:30 テント発 − 6:30 パノラマ新道との分岐 − 7:40 新村橋 − 8:14 パノラマ新道との分岐− 9:30 テント 9:40 − 12:00 新村橋− 12:30 徳沢− 13:15 明神 13:48 − 14:27 河童橋− 14:33 バスターミナル
登れなかったら1日早く下山と決めて、期待できない気持ちで3時に起床。「たまごスープ」「ちょっとぞうすい(鮭)」の雑炊で朝食。微妙な天気と濡れた岩にテンションが下がる。来てからずっと雨の大内さんが、「松原、いつでも出れるように準備しろ」と気合を入れる。
東の空が少し明るくなった。テントの周りに霧はないが、山の上には黒い雲がいる。下のほうもガスっている。森田さんに見送られて、雨具を着て中又白谷に向かう。
鳥のさえずりが聞こえて、天気が良くなりそうな気もするが、足元の岩は濡れていて、木の枝から小雨のように水が落ちてくる。濡れたW級上の岩は、ザイルをつかんでごまかすとして、上部の200mのスラブは嫌だなぁ。「スラブが怖そうだったら、ザイルを出してくださいね」と口に出してみるが、返事はない。
しばらく下ったところで中嶋さんが、「岩が濡れていて、このメンバーで中又白谷を登るのは厳しい。登るのは無理だ」と大内さんに言った。中嶋さんが天使に思えた。
1日も行動できなかった大内さんは、取り付きを確認してから戻ると決め、湿った空気の中をさらに下る。新村橋手前に停めてある車に気をとられて、橋への分岐を通り過ぎたが、すぐに松原さんのGPSで現在地を確認し、引き返して新村橋の手前まで戻り、取り付きと中又白谷を確認した。
大内さんが、F1の手前まで行こうと言うが、中嶋さんは、F1まで40分もかかるから嫌だと言った。登れないなら早く下山したかったので、本日2度目に、中嶋さんが天使に思えた。新村橋に登攀具とザイルをデポしてテントに戻る。
途中で森田さんと無線が通じ、大内さんが、今日中に下山するので、できれば撤収の準備をして待っていてくれるようにと伝える。奥又白池まで戻って、荷物をまとめて下山。朝は岩が濡れていて気持ちが重かったが、今度は荷物が重い。
徳沢で松原さんにソフトクリームをごちそうしてもらい、明神で森田さんにワインをごちそうしてもらう。明神につくと、雨がパラパラ激しく降ってきたので、雨宿りしながら、一人2杯ずつワインを飲んだ。
河童橋で松田さんが回収してくれた帽子と再会し、バスに乗って、あかんだな駐車場に。汗と雨と湿気で、体が臭い。隣の席で、母親の膝に座っていた女の子が、鼻をつまんだ。女の子は、ウトウトして手を投げ出し、目を覚ましては静かに鼻をつまむというのを繰り返した。
平湯温泉に入り、高山まで行って、茶々でとろろ飯を食べる。合掌造りの趣のあるお店で、窓際に土雛が飾ってあった。店内を見て回りたかったが、足の裏のマメが破れたところが痛いのでやめた。濁った温泉につけたのがよくなかったのかも。
森田さんと松原さんは濁り酒と日本酒をたしなんだ。自然薯のとろろと麦飯は、とても美味しく、お腹につるつると入り、みんなでご飯をモリモリ食べた。
お腹もいっぱいになり、あとは大阪に戻るだけ、大内さん・中嶋さん、運転ありがとう と思っていたら、高速道路が渋滞していて、なかなか進まない。
帰省ラッシュに加えて京滋バイパスが雨による災害で通行止めとなり、さらに事故で渋滞しているようだ。日が変わっても大阪には辿り着けず、そのまま大内さんの家に泊めてもらうことになった。
2時前に吹田に着き、コンビニで食べ物とビールを買って、大内さんの家でお膳を囲む。テントから大内邸に場所が変わっただけで、していることは同じだ。
松原さんが、スパゲティーカルボナーラ、アメリカンドッグ、プリン、冷奴と夜中とは思えないくらいガッツリ食べるのを見ながら、4人は冷奴など食べ、起床から23時間の長い一日が終わった。停滞前線と渋滞に悩まされた合宿だった。
文章/田中